2017年9月25日 グラビアと白

昨晩の午前二時ごろ、どうしてもウィルキンソンコーラ風味が飲みたくなり近所のサンクスに入ると、目の前には閑散とした光景が広がっていた。上を見上げると「10月よりファミリーマート○○駅前店OPEN!!」という煽り文。なるほど、どうやらここのサンクスもファミマに変貌を遂げてしまうらしい。まあファミマになってしまうといっても、そもそも商品のほとんどはファミマブランドだし、それなのにFamiポートは存在しないし、駅に最も近いコンビニがサンクスというのもなかなかサブカルめいている気がしていたので、閉店自体には特に感慨が生じることなどはなかった。商品棚に売れ残りしか残っていないことも特段珍しい光景ではなく、四六時中誰かとつながっていることが当たり前な現代人の喪失感を掻き立てるような事象ではない。しかし、その中でただ一箇所、雑誌コーナーだけは異彩を放っていた。

その雑誌棚には水着グラビアが表紙の雑誌のみが残されていた。いや、残されていたと表現するには数が少しばかり多い。このうえなく純度の高いグラビアに支配されたその空間において、虚ろになりかけている店舗全体とは対照的に、グラビア雑誌が確固たるものとしてその存在を主張し続けていたのだ。なぜこのようなことが起きたのか、理由は不明だ。このあたりは栄えを知らない三流風俗街の典型であることも一因として考えられないこともないが、そこまで大きな性の衝動に駆られているオヤジたちが、恥部に布を覆いかぶせた女を二次元上に表したモノに満足感を得られるのだろうか。わからなかった。風俗に身を投じたこともコンビニを経営したこともない青二才の自分の理解と考察の範囲を超えていた。

さて、確かに一定数、目にも鮮やかな刺激色に装飾されたグラビア誌は存在していたわけだが、雑誌棚の無機質な白を覆いつくせるほど多くは存在していなかった。そこには、何もない。何もない白だけがある。雑誌棚をとらえた僕の視界には、疑いようもなく「余白」があった。そのことに気付いた瞬間、グラビア誌の刺激的な色が、ひどく淡くて繊細なものに映った。余白に染み渡ることのない、原色と肌色。見る人の心には響くように、彼女たちは笑っているのだろうか。彼女たちの心の中は何色なのか。わからなかった。ウィルキンソンのコーラ風味は売っていなかった。僕は何も買わずにコンビニを出て、風俗街を通って帰ることにした。

 

 

 

2017年9月23日 おばあさんとFAKE

日常生活においてあまりに頭を使わないため、脳みそが腐ってしまうのでは?という疑念が生まれてきたのでここに毎日のことを記していこうと思う。別にこうして文字に起こすことが何らかの価値を生むわけではないし、いうなれば老化防止のための事務的作業に過ぎない。というわけで今日も記していきます、よろしく。

 

<記録>

気がついたら時計は午後7時過ぎを指していた。いや、正確には起床してから何度かは時計は見たはずだし、決して今日一日何もしていないわけではない。間違いなく生活が送られていた記憶は、わずかながらにある。それでも時計は午後7時過ぎを指している。どうやらこれは揺らぐことのない現実らしい。時間は一方向にしか進まないのだ。これは正直困る。バイトまでもう24時間を切ってしまった。

 

とはいえ夕飯を食べなければならないので、冷蔵庫にしまっておいたコロッケのタネを揚げようとするも、卵がない。卵がないと衣が作れない可能性がある。衣がなければコロッケはできない可能性がある。というわけで、俺はコロッケをコロッケたらしめるためにコンビニに卵を買いに出かけた。徒歩一分、セブン着。「コンビニ物価高い」と貧乏大学生はよく口にするが、実際のところ卵に関して言えばイオンの最低価格と十円しか変わらない。十円。現実から目をそらしてはいけない。その後卵をかごに入れたものの、突発的な欲望にそそられてしまったので目に入った雪見大福にも手を付ける。レジではおばあさんが大量のおでんを購入していた。とてもうれしそうにコンビニおでんを眺める老婆。まるで演出のきいたCMを見させられているかのようで、とても悲しい気持ちになった。おばあさんも、実は演技で笑っているのかもしれない。これ以上の疑念に価値はない。考えないようにしよう。人には人のコンビニおでんがあるのだろう。

 

パン粉が完全にダメになっていたけど、それなりに満足できるコロッケができた。デザートは雪見だいふく。甘くておいしかった。しかしここで雪見だいふくの”もち”部分は、実際にもちでできているわけではない、ということを思い出す。瞬間、俺の中で雪見だいふくに対する信頼度はさがってしまった。だいふくと謳ってはいるものの、実際は白玉粉だのなんだのがあーだこーだ。だましやがってFAKEめ。いや、しかし俺がこの事実を思い出すまで、雪見だいふくはだいふくであったかもしれない。観測するまでは、雪見だいふくは大福でありつつ大福でない存在だったのだ。

 

雪見だいふくは確かに俺のことをだましていた。でもそれは優しいウソだった。おばあちゃんのコンビニおでんに対する完成された笑顔もまた、優しいウソなのかもしれない。世界はFAKEで満ちている。世界はFAKEで成立している。世界もアイスも、本物の”もち”に包まれてはいない。