2017年9月23日 おばあさんとFAKE

日常生活においてあまりに頭を使わないため、脳みそが腐ってしまうのでは?という疑念が生まれてきたのでここに毎日のことを記していこうと思う。別にこうして文字に起こすことが何らかの価値を生むわけではないし、いうなれば老化防止のための事務的作業に過ぎない。というわけで今日も記していきます、よろしく。

 

<記録>

気がついたら時計は午後7時過ぎを指していた。いや、正確には起床してから何度かは時計は見たはずだし、決して今日一日何もしていないわけではない。間違いなく生活が送られていた記憶は、わずかながらにある。それでも時計は午後7時過ぎを指している。どうやらこれは揺らぐことのない現実らしい。時間は一方向にしか進まないのだ。これは正直困る。バイトまでもう24時間を切ってしまった。

 

とはいえ夕飯を食べなければならないので、冷蔵庫にしまっておいたコロッケのタネを揚げようとするも、卵がない。卵がないと衣が作れない可能性がある。衣がなければコロッケはできない可能性がある。というわけで、俺はコロッケをコロッケたらしめるためにコンビニに卵を買いに出かけた。徒歩一分、セブン着。「コンビニ物価高い」と貧乏大学生はよく口にするが、実際のところ卵に関して言えばイオンの最低価格と十円しか変わらない。十円。現実から目をそらしてはいけない。その後卵をかごに入れたものの、突発的な欲望にそそられてしまったので目に入った雪見大福にも手を付ける。レジではおばあさんが大量のおでんを購入していた。とてもうれしそうにコンビニおでんを眺める老婆。まるで演出のきいたCMを見させられているかのようで、とても悲しい気持ちになった。おばあさんも、実は演技で笑っているのかもしれない。これ以上の疑念に価値はない。考えないようにしよう。人には人のコンビニおでんがあるのだろう。

 

パン粉が完全にダメになっていたけど、それなりに満足できるコロッケができた。デザートは雪見だいふく。甘くておいしかった。しかしここで雪見だいふくの”もち”部分は、実際にもちでできているわけではない、ということを思い出す。瞬間、俺の中で雪見だいふくに対する信頼度はさがってしまった。だいふくと謳ってはいるものの、実際は白玉粉だのなんだのがあーだこーだ。だましやがってFAKEめ。いや、しかし俺がこの事実を思い出すまで、雪見だいふくはだいふくであったかもしれない。観測するまでは、雪見だいふくは大福でありつつ大福でない存在だったのだ。

 

雪見だいふくは確かに俺のことをだましていた。でもそれは優しいウソだった。おばあちゃんのコンビニおでんに対する完成された笑顔もまた、優しいウソなのかもしれない。世界はFAKEで満ちている。世界はFAKEで成立している。世界もアイスも、本物の”もち”に包まれてはいない。